DropFrame

 ふと立ち止まりそこに道があるのかと、確認できる勇気はない。
引き返しも出来ず、ただがむしゃらに前へ進むしかない。
目の前は光とも暗闇とも判別できない不思議な空間で、
ただ触ると何処か冷たく、そしてどこか暖かい。
曖昧に漂う空間で、ああ俺は今夢を見ているのだと漸く認識する。
だったら何が起っても不思議じゃねえな、なんて。
状況が理解できると即座に座ってしまう肝。
てえことはなんだ、これは俺の「しんそーしんり」って奴か。
なんだかよくわかんねえな。
しんそーしんり、だからこそ、分からないのかもしれないが。

 ただ漂っているだけでは味気ないので、動ける範囲で行動してみようと思った。
もがくように手で空間をかき分けると、
まるで水を掻いているような感触が手先に伝わり、身体を駆け巡る。
これは進んでいるのだろうか。ああしゃらくせえ、もっと大きく動けねえのか。
募る苛立ちに地団駄を踏んだつもりだった。
空を切るはずの足先に伝わったのは堅いなにかを蹴る感触。
突然浮き上がる身体にトッシュはうお!と情けない声を上げて、慌てて体勢を整えた。


「動きたいと思ったからか……?」


 トッシュはひとりごちながら不思議な空間を闊歩する。
最初は不思議な空間だなあと思って辺りを見渡していたが、
歩けども歩けども、景色は一向に変わらない。
一体いつ目を覚ますんだろうな、俺。

 ぼんやりと考えながら歩いていると、遠くの方に一つ、小さな人影が見えた。
人影は肩を怒らせながら、トッシュの幾分先を歩く。
見覚えのあるような、ないような。
背中に追いつこうと歩調を早めるが、
まるで斥力が働いているかのように、距離は縮まらない。
その人影は時折腰を屈めて苦しそうに、虚勢を張るように胸を張り、
それでもどんどんと前へ歩いて行く。
危なっかしい奴。
ぼそりと呟いたその瞬間、人影は輪郭を歪めて空間に溶けていく。そうして———。


「トッシュ、起きろ」
「……お?ん、んん……」
「お前は……全く飲み過ぎだ」


 どうやら寝落ちていたらしい。
お猪口に残った焼酎が、情けなくトッシュの顔を揺らす。
口元を拭い大きくのけぞると、ぱきりぱきりと骨が悲鳴を上げた。
結構寝てたか?と声の主に問うと、イーガは顔を歪め


「お前がいつから飲んでいたかは把握していない」


 と言葉を吐いた。
まあそれはそうだろうな。隠れて飲んでたし。
ぬるくなった焼酎をあおり、徳利を傾けようとすると、
イーガがぴしゃりとトッシュの手を叩いた。
ぶうとむくれながらしぶしぶ手を戻すと、
トッシュは机に頬杖をついて、ぼんやりと、喋り出した。


「よくわからねえ夢を見た」
「夢か」
「全く夢なんて見てる暇なんてねえのによ」


 トッシュの、まるで突き放すような口調にイーガは顔を顰め、
お前は、と一言口にして、しかし言葉は続けずに閉口してしまった。
そんなイーガの姿を見ながらトッシュは先程の夢に出て来た人影をぼんやりと思い出す。
危なっかしい奴。
あのとき呟いた言葉が妙に胸に響く。
「危なっかしい奴」。
それは、多分。


「……まあ、たまにはゆっくりするのも、悪くはねえのかもな」


 ぽろりと零れた言葉に、先程まで厳しい顔をしていたイーガの表情が少しだけ緩んだ。
自身でも何故そんな言葉が零れ出たのかわからない。だがしかし、ぽろりと零れたのだ。
意図せず。
自然に。

 彼は、飲み過ぎるなよ、と一言だけ言い置いて、自室へ戻っていった。
一人残されたトッシュは酒を飲み続ける気持ちも薄れ、
ぼんやりとシルバーノアの天井を仰ぎ見た。
ごうごうと稼働するエンジン音だけが、部屋を満たす。
また薄れていく意識に、このまま寝たら酒飲んでるのアークにばれるだろうな、とか、
ククルに嫌な顔されんだろうな、なんて懸念がぽつりぽつりと浮かぶ。
アークはいいにしても年頃の嬢ちゃんのご機嫌取りなんて難しいことこの上ねえしな。
そうは思っていてもあらがうことなんて出来ずに誘われるまま夢の淵へと落ちていく。

 目が覚めたら。
目が覚めたら少し肩の力を抜いてみよう。
虚勢を張る回数も、ちょこっとだけ減らそう。
そうすればきっと、あんな危なっかしい歩き方をしなくてもすむ筈だ。

 途切れる意識の狭間で、あの人影が見えた気がした。
今度はこちらを向いて、笑って、手を振っているような、そんな気がした。