ぱちん。小さな破裂音とともに、何かが弾け飛んだ。
同時に緩まる髪の拘束と、踊るように宙に舞った赤いリボン。
それは優雅にひらりと身を翻しながら音もなく床に着地する。
私はもはや機能性を失ったただの赤い布を拾い上げて、ああ、と嘆息した。
そろそろまずいとは思っていたけどこんなに早く切れてしまうとは。
だらしなく伸びきったそれを両手で伸ばして、もう一度ため息。
「あら、ゴムが切れちゃったのね」
シャンテさんが私の手元のそれを見て苦笑を浮かべる。
毎日つけていたものね、との彼女の言葉に私は、そうですね、と短く返事を返した。
私の手の中のそれは特別可愛いデザインでもなければ、上等な質のものでもない。
ありふれたデザインの、市場で乱雑に並べられているような普通の髪ゴムだ。
しかしどうしてだろうか。
不思議と切れたこれを捨てる、なんて気持ちがどうしても沸き起こらなかった。
むしろ頭の中ではどうやって直そうか、なんて考えがぐるぐると回っている。
「もしかして思い出の品だった?」
「うーん、長い事使っていたといえば使っていたんですけど、
特に思い出があるってわけじゃないんですよね」
「あらそうなの……ひとまず新しいの準備する?
アークに頼めば髪ゴムのひとつやふたつは買ってくれると思うけど」
「お気持ちは嬉しいですけど……なんだか、新しいものを買うのも……」
「ああ、わかるわその気持ち。
ずっと使ってきた物ってなんだか身体の一部みたいに思えてきちゃうのよね」
私が未練がましくリボンを見つめていると、
シャンテさんが、直しましょうか?と微笑んだ。
願ってもない提案に、私が顔を上げると、シャンテさんはやはり綺麗に微笑んで、
リボンを丁寧に掬い上げた。
彼女の指に合わせてリボンがゆらりと揺れる。
これなら今日中に直りそうだし、そう呟く彼女に私は、いいんですか?と首をかしげた。
「困った時はお互い様じゃない」
私の問いにシャンテさんは微笑みをたたえる。
きっと彼女なら私が弄ってしまうよりも数倍綺麗に直してくれるだろう。
「すいません、ならお願いしても大丈夫ですか?」
「任せといて、裁縫は得意なの、ああでも」
「でも?」
「直している間の代用のゴムがないのよねえ、私髪を結ぶ事ってないし、
生憎サニアも出ちゃってるし……ちょこにでも聞いてみる?
案外トッシュやイーガが持ってたりして」
「そ、そんな悪いですよ!
出かける予定もないですし、今日は一日下ろしたままで居ます!」
「そう?ならいいけれど」
そう言うとシャンテさんは立ち上がって、
ソーイングセットを探しに部屋を出て行ってしまった。
なんだか押し付けちゃったみたいで申し訳ないな。
そう思いつつ、私は髪の先の方につけていたリボンもそっと外した。
自由になった髪の毛が風に揺られて小さくうねる。
髪を下ろして過ごすなんて久しぶりだわ。
先ほど外したゴムを伸ばしたり縮めたりしながら状態を確かめる。
よかった、こっちは問題なさそう。
この髪型にこだわりはあまりないのだけれど、どうにも結んでいないと心がむずかゆい。
折角だし髪を一つにまとめようかな、ククルさんみたいに。
ああでもサニアさんみたいに下で一つに纏めるのも悪くないかも。
折角だし色んな髪型を試してみようかしら。
そう思って鏡の前へ移動しようとした頃、
廊下のほうでどたばたと騒々しい足音が聞こえた。
エルクが帰ってきたんだわ。
私は直感的にそう悟る。
じいっと閉じた扉を見つめていると、数秒後、扉は大きな音を立てて乱暴に開かれた。
と、同時にエルクがなだれ込むように入ってきて、すぐさま扉を閉める。
「わ、わりいちょっと匿ってくれアークに内緒で金使ったのがばれた!」
荒い呼吸を整えながら、エルクは部屋を見回す。
そうして私を視界に捕えると、あっと小さい声を漏らして動きを止める。
彼の目が驚き瞬いた後、困ったように目が泳ぎだした。
心無しか少し顔も赤い気がする。
そんな彼の言動に、どうかした?と私が問いかけると、
彼はやはり困ったように私を見つめて、眉を潜めながら言葉を吐いた。
「ど、どうしたんだよその、髪」
「髪?ああ、ゴムが切れちゃって。その、変、かな?」
「いや、なんか、雰囲気変わるな」
その後にぼそりと、似合ってる、とエルクは本当に小さな声で呟いた。
この部屋が静かでなければ聞こえないような声量で、だ。
もしかして照れてるのかしら?
彼の一言に胸を撫で下ろしながら、私はにっこりとエルクに微笑みかける。
エルクはそんな私を見て、なんだよ、と一言ぶっきらぼうに言って
やはり目線を泳がせた。
なんだかその姿が面白くて、未だに扉の前で硬直する彼に歩み寄る。
そうして私も扉を塞ぐように彼の隣りに立った。
エルクはぎょっとした顔で私を見たが、何も言わずに私から半歩距離をとる。
「エルク、また勝手にお金使っちゃったの?」
「あ、後で言おうと思ってたんだよ!」
「ちゃんと謝らないと」
「謝るってーの!ただいまはその、アークの腹の虫が落ち着いてからと思って……」
エルクはちらりと私を見下ろす。
そうしてほどかれた私の髪の毛にそっと触れて、軽く梳く。
綺麗な髪してんな、とぼそりと呟いて、今度は私の顔に目線をうつす。
少しからかおうとして近寄ったのに、これでは立場が逆じゃないか。
彼のあまりに真っ直ぐな視線を受けて今度は私が目をそらすと、
小さな笑い声が聞こえた。
「なんつーか、大人っぽいな、髪をおろすと」
「本当?」
「ま、色っぽいからはほど遠いけどな」
「酷い!そんな事言わなくてもいいじゃない」
「悪い悪い、ま、いつものも悪くねえけど、うん」
そうして彼の指に絡みほどけていく髪。
伸ばしていてよかったなあ。
彼の指から滑り落ちる髪の毛を見つめる。
俺は剛毛だからなあ。
エルクの言葉に導かれるように彼を見上げると、
思いの外近い距離で目が合ってしまって、思わず数歩後ずさってしまった。
そんな私の姿を彼は可笑しそうに笑い、ゆっくりと名残惜しそうに私の髪から手を離す。
そうして彼は音を立てないように小さくドアを開けた。
聞き耳を立てながらそろりそろりとドアを開いていく。
居るの?私の問いに、居ないな、と彼は返す。
「じゃ、今のうちに俺はいくわ、その、くれぐれも」
「アークさんには内緒にしておくわ、いってらっしゃい」
「悪ぃな」
いたずらっ子のような笑みを浮かべて彼は廊下に飛び出した。
しかし、すぐ走り出すと思っていたのに、
彼は私の顔をじいっと見つめてなかなか動こうとしない。
エルク?と私が呼びかけると、彼ははっと我に返りひとつ、私の頭を撫でた。
「似合ってんだからたまにはその髪型しろよ、じゃあな」
そうして彼は軽快に走り去ってしまった。
まるで嵐が過ぎ去ったような、そんな気持ちで私はその場にへたり込む。
ああ、もうだから。去り際の彼の笑顔が私の頭の中にリフレインする。
似合ってんだから。
思わぬ爆弾発言に、私の顔はきっとリンゴ程に真っ赤に彩られているのだろう。
全く、全く。
「エルクには、敵いっこないわ」