DropFrame

その淡い世界の隣りで

 夜明け前の世界は、ほんのりと爽やかな香りがした。
なんの香りだろうか、と鼻をひくつかせてもリーザには判別は出来なかった。
まだ薄暗い部屋の中でベッドから抜け出すと、
彼女は音を立てないようそうっと窓を開けた。
まだ夜のカーテンで覆われた空は僅かだが星が瞬き、
風は草木を起こさぬよう足音を殺して流れていく。
寝る前にはちらほら付いていた民家の灯りも、今やほとんど見当たらない。
大通りにある街灯だけが、優しく街を照らしていた。

 妙な時間に目が覚めてしまったものだ。
まだ眠っている町並みを宿の窓から見下ろしながら大きく伸びをした。
眼下に広がる街には人っ子一人見当たらない。
昼間の喧騒が嘘のように、ひっそりと静まり返っている。

 今まで予定より早く起きてしまった経験がないわけではない。
普段ならここで二度寝に洒落込むところなのだが、
なぜだかどうしても今日はそんな気分にはなれなかった。
別に特別な日なわけでもないのに。いつも通りの、なにもない一日なはずなのに。

 壁にかかった時計は4時を指している。
いつもより随分早いお目覚めだ。
奥のベッドからシャンテとサニアのすやすや気持ち良さそうな寝息が聞こえる。
これからどうしようかな。リーザは音を立てないよう自分のベッドに腰掛ける。
このまま寝るべきか、それとも起きておくべきか。

 そう言えば今日は何をする予定だったっけ?
エルク達はギルドの仕事でモンスターの討伐に出かける予定だったはずだ。
アークさんが鍛錬もかねて、なんて言ってたから少し手強い相手に挑むはず。
エルクったら昨日は張り切って槍の素振りをしていたものね。
リーザの脳裏に昨日のエルクの姿がよぎり、思わず頬が緩む。
いつものポンチョを脱ぎ捨てて、一心不乱に槍を振り回す彼は、
いつもにも増して精悍な表情をしていた。

 格好良かったなあ、思わず零れる言葉と同時にサニアが寝返りを打つ。
びくり、と心臓を震わせたリーザだが、ただの寝返りとわかると胸を撫で下ろした。


「(折角だし、外へ出てみようかしら)」


 ここに居ても仕方ないし、万が一、二人を起こしてしまったら申し訳ない。
それに少しでも外の風に当たれば、眠る気も起きるかもしれない。
音を立てないようにゆっくり立ち上がって、
リーザは寝息をたてるサニアとシャンテの様子を伺う。
早朝に、それに一人で街をうろつくなんてあまり褒められた行為ではないので、
出来るだけ二人にはばれないようにしておきたい。
二人の寝顔をしっかりと確認して、リーザは足音を殺して、
そろりそろりと部屋から抜け出した。


* **


 起き抜けの頃よりも、少しだけ空が白んできたような気がする。
それでもまだまだ暗い朝の街は思いのほか涼しくて、新鮮な空気で満たされていた。
やけにひびく足音が楽しくて、リーザは軽くステップを踏んでみる。
こつりこつり、彼女の足に合わせて石畳が嘶く。
まるで世界でたった一人、広大なステージで踊っているみたい。
不思議と寂しくないのはきっと、
遠くの方で聞こえる早起きな鳥達の歓声のおかげだろう。
風が草木を揺らす音に耳を傾けながら、リーザは大きく息を吸い込んだ。
こうして朝は運ばれてくるのね。緩く吹く風が彼女の髪を揺らし、すり抜ける。
その風を追いかけるように、彼女はまだ眠りから覚めない街を闊歩する。

 少しだけ早起きするとこんなにも新しい世界が見えてくるなんて。
勝手に一人で歩いている少しの罪悪感と、
それを吹き飛ばすような好奇心でリーザの胸は異様に高鳴っていた。
当たり前のものも、光の加減でいつもとは違う表情を見せるし、
誰もいない街という物は、これはこれで気分がいい。

 だから、それ故に。
普段気がつくような事に気付かないでいたのだ。


「お前なあ!一人で出歩くなよな!」


 普段なら足を踏み入れないような細い路地の階段を下りようとしたところで、
突然腕を掴まれた。
よく聞き慣れた声と腕の感触で振り返ると、
そこには不機嫌そうに顔を歪ませるエルクの姿があった。
エルクの気配には鋭い自信があったのに。
リーザは突然の出来事に思わず声を上げそうになったが、
慌てて自分の口元を押さえてそれを阻止する。


「え、エルク?いつから?」
「宿出るときからだよ!
 全くこんな朝っぱらから何をするかと思えばふらふら歩き出すし、
 付いてきてみれば裏路地に入ろうとするし!」
「えええエルク!み、見てたの?!ずっと?!」
「当たり前だろ、一人でなんか事件に巻き込まれたらどうすんだよ!
 危機感ってもんが足りねえんじゃねえのか?」


 だいたいなあリーザは普段からぼーっとしてるからだなあ。
エルクが説教をはじめるも全くもって彼女の頭には入ってこない。
そんなことよりも、今までのことが見られていたなんて!
軽快なステップを取っていたり、
町中をきょろきょろ見回して自分の世界に入り込んでいた自分を思い出して、
リーザは顔を伏せる。
本当に、恥ずかしいにも程がある!
リーザは掴まれていない方の腕で自分の顔を隠しながら、
ふるふると頭を横に振るった。ああもう!穴があったら入りたい!!


「聞いてんのか?!」
「み、皆には内緒にして!お願い!!」
「……まあ今回だけだからな、次からは一人で出歩くなよ!」
「わ、わかりました……」


 先ほどまでの高揚がしゅるしゅる音を立ててしぼんでいく。
気恥ずかしくて、まともにエルクの顔が見れないリーザを、
彼は十分反省してると取ったのか掴んでいた腕を解放した。
それでも顔を上げない彼女を見て、エルクはばつが悪そうに言葉を濁しだした。


「あー、あのその、俺も強く言い過ぎたか、も」
「……ううん、心配して付いてきてくれたのよね、ありがとう」
「べ!別に俺はその朝のランニングをしようと思ったらたまたまその、
 リーザが見えたから」
「そっか、ランニングの邪魔、しちゃった?」
「じゃ、邪魔なんかじゃねえよ、別にランニングなんていつでも出来るし、
 ところでリーザはなんでこんな朝っぱらから街をうろついてんだよ」
「なんだか早く起きちゃって……もう目が冴えちゃったから出てきちゃった」
「出てきちゃったってお前……まあ、いいか」


 こうして無事ならなんら問題ないしな。
未だに顔を上げないリーザの後頭部を軽くはたいて、今度は彼女の手をそっと握る。
リーザは握られた手から、彼の顔へと目線を移す。
朝焼けに照らされて真っ赤に染まった彼の横顔は、
いつもよりもとても大人びて見えた。これも、朝の街の魔法かしら。


「エルク、これから走りにいくの?」
「まずはリーザを宿まで送り届けてからだな」
「そう、じゃあちょっと遠回りして帰らない?」


 おそるおそる提案を切り出す。
だって折角朝の魔法がかかっているなら、もう少し一緒に居たい。
いつもと違う表情をした街を、
少しだけ頼もしく見えるエルクと一緒に、歩きたいと思ったのだ。


「しょうがねえなあ、少しだけだからな」


 そう言うとエルクは握った手を軽く引いて歩き出した
——宿の方向とは少し外れた方角に。
握られた手の温かさと、彼のこそばゆい優しさに触れて、照れ恥ずかしくなる。

 ねえエルク。
リーザは彼の名前を呼んだ。
エルクは振り返ることなく、なんだよ、と返事を返す。


「早起きって、悪くないものね」


 夜のカーテンは大分薄くなっており、世界はほんのりとパステル調に彩られていた。
鳥の鳴き声も増えて、ところどころの民家からは朝ご飯の支度の音が聞こえる。
一日がようやく動き出した街の中で、淡い二つの影は短く、
それでも確かに寄り添って歩いていた。