「その」
自分の指先が震えているのがリーザにははっきりとわかった。
彼にばれないようにと両手を前で結んで強く握りしめる。
勢いで彼を呼び止めたはいいが、次の言葉が出てこない。
天気がいいわね、今日は暖かいわね。
あたりさわりのない話題からはじめるべきなのだろうか。
しかし本題とも言える「抱きしめてほしい」なんて欲望の固まりの言葉が、
彼女の胸を掴んで離さない。
というのも今朝の出来事。
春の陽気にあてられて街を闊歩していた彼女は見てしまったのだ。
仲睦まじそうなカップルを。
お互い幸せそうに顔をほころばせて抱き合う姿を。
その場は逃げるように立ち去ったのだが、
どうにもそのヴィジョンが頭に焼き付いて離れない。
いいなあ、とか羨ましいなあから産まれたこの気持ちは、
すぐに彼女の頭の中を浸食し始めた。
エルクだったら、どうやって抱きしめるのだろう。
そんな本人にも言えないような下世話な想像が頭の中を飛び交っている。
胸にはもやもやしたどうにも対処できない思いが渦を巻く。
だけどもその欲望が喉元へ上がってくる気配は微塵も感じない。
なんて意気地なしなのだろうか。
当の本人はきょとんとした顔でリーザを見下ろしている。
どうしたんだ?腹でもいたいのか?訝しげな顔でリーザの顔を覗き込む。
途端、彼女の心臓が大きな音をたてて跳ね上がった。
ひゃあ!と小さい悲鳴を上げてリーザは数歩後ずさり、胸元に手をやり彼を見上げる。
「わ、悪い!驚かすつもりはなかったんだ」
「い、いいのいいの、私も、その、たいした用事じゃないし……」
「そうか?たいした用事じゃない!って顔はしてねえけど」
泳ぐ視線、困惑した空気、鳴り止まない心臓の音。
素直に伝えた方がいいのだろうか。
抱きしめてほしいなんて、エルク困っちゃいそうだけど。
それとも転んだ振りをして飛び込んでみる?私にそんな勇気がある?
行ったり来たりの禅問答にリーザは下唇を軽く噛む。
だめね、私って本当にだめ。
「リーザがなに悩んでるか知らねえけど、俺に出来る事があったら何でも言えよ」
そうして意気消沈していると、エルクはぼそりと、小さい声ででも確かにそう言った。
はっと顔を上げると、
彼は照れたようにそっぽをむきながら乱雑に自分の髪の毛を掻いている。
目が合うと彼は、なんだよ、と唇をとんがらせて言葉を放つ。
「俺はそりゃ、ちょっと頼りねえかもしれねえけど……」
「エルク……」
「言いたくなったら言えばいいし、出来る事があったらなんか言えよ!
俺からはそれだけ!じゃあな!」
言っていて恥ずかしくなったのか、
エルクはリーザの頭を軽く叩くと大股で踵を返してしまった。
リーザはとっさに翻ったマントを掴んで、再度彼の名を呼ぶ。
マントを掴まれてつんのめった彼は、
どこか照れくさそうに振り返り、リーザを見つめた。
「な、なんだよ!」
「その、わ、わたし、私ね!」
「お、おお!なんだなんだ言ってみろよ!」
「その、私、エルクに……!」
喉物につまった言葉。リーザは空気を大きく吸って、彼の顔を見上げた。
大きな丸い瞳には小さな自分がしかりと映っている。
彼のマントを握りしめて、一歩踏み出す。
マントを握る手がじんわり汗ばんでいる。
あのね。
そう前置きをしてリーザは挑むように彼を目線で射た。
「だ」
「だ?」
「だ……だ」
「なんだよはっきり言えよ!」
「だ、だ、抱きしめて、ほしいの!」
そのとき、エルクは確かに自分の理性がはじけ飛んだ音を、聞いた。