穏やかな空気。たおやかな風。
春をほんの少し含んだ空気を胸一杯吸うと、
自分の濁ってしまったなにかがすっと浄化される気がする。
窓の外のまだまだ堅いつぼみを見上げながら、トッシュは細く長い息を吐いた。
あと7つか8つ程夜を越せば、ここら一面に桜も咲くだろう。
風がそう告げていると言ったら全くきざったらしい言葉になるが、
それ以外表す言葉をトッシュは知らない。
「こんなところにいたんだ」
こつりこつりと堅い石畳を踏みならしながら、ククルは嬉しそうにやってきた。
よう、と片手を上げると、
彼女も同じように、よう、と返しながらトッシュの元に歩み寄る。
春だねえ、と彼女は軽々と窓枠に腰を据える。
昔よりいささか短くなった髪が、風の吹くまま大きく跳ねる。
「少しはしとやかになったと思ったが、変わんねえなあ」
「あら、十分おしとやかなレディだけど?」
「はー、言うねえ」
クククと笑うトッシュに、ククルも同じようにはにかみ返す。
トッシュも変わらないそうじゃない。
アークが使途不明金が増えたって嘆いてたわよ。
しとふめーきん?なんだそれ、美味いのか?
美味いってあんたねえ。
トッシュの物言いにいささか呆れたように笑うククルだったが、
やっぱり変わらないわね、なんて一つ息を漏らして外に目をやった。
花の咲いてない桜の木は少しか弱く、そして少々味気ない。
「もうちょっと来る時期が遅かったらねえ、咲いてたのに」
「まあ桜なんてこの時期どこでも見られるだろ」
「そういうものかしらね、あーあ、私もアークとお花見したかったな」
「来年があるじゃねえか」
「来年かあ……」
来年。
どことなく憂いを含んだ一言をククルは呟いて、そのまま押し黙ってしまった。
先ほどまで緩んでいた顔もいまや口を真一文字に結んでしまっている。
まずい事言っちまったか?とトッシュも彼女から桜へと目線を外す。
緩い風が新緑を枯れ葉を揺らす。
春とは、命の変わり目の季節だ。
花は咲き乱れ、草花は息を吹き返し、雪は静かに流れ溶けてゆく。
「来年、私たちはちゃんとここに居るのかしら」
「居るために頑張るんだろうが」
「……そうよね、そうよ」
彼女の結んでいた口元がふっと緩む。
馬鹿みたいな事言っちゃった。
おどけて笑うククルにつられてトッシュもまた、表情が緩む。
「終わったら何をしたいか今から考えとけよ」
「えー!私アークが居ればそれでいいかなーって」
「あーあー、オアツイこって」
「子どもも欲しいしー、男の子がいいなあ、女の子でもいいなあー!」
「ほお、産まれたら見せに来いよ」
「えー!やだートッシュ手え出しそうだもん」
「ば!だ、出さねえよ!!」
「信用ないわあ」
「コイツ……!」
***
そう、生命は輪廻する。
きっと彼らも、きっとどこかで。
「ほら、持ってきてやったぜ、とっておきのだからな」
一本の桜の枝を彼女らの墓標の隣りに刺す。
トッシュは数秒手を合わせて黙祷すると、静かに立ち上がった。
見ているだろうか。きっと見てるだろうな。
特にククルは一回言い出したらうるさいし、しつこいからな。
きっとどこかでアークの腰を引っ掴んででも、
花見に洒落込んでいるのではないだろうか。
春の風がトッシュを、桜を、墓標を包んで通り過ぎて行く。
ぽつりぽつりと付いている小さな花弁が風に揺られてその身を震わしている。
その姿がほのかに喜んでいるように感じるのは、エゴであろうか。
いや、違うな。
トッシュはそのまま踵を返して歩き出す。
きっと彼女らは喜んでいるだろう。そう信じよう。
柔らかな風が世界を駆け抜ける。
行け、風よ。新しい季節を、命を運んで、世界中を吹いて行け。