その日はひどく穏やかな月夜だったから、
きっとトッシュはどこかで飲んでいるのだろうとイーガが笑っていた。
私もきっとそうだと思うし、もし私がトッシュだとしても
どこか人気の無い静かなところでお酒を楽しもうと思う程綺麗な夜だった。
しかし生憎ククルはどこぞやの剣客様のように
月夜を背景にひとりお酒を楽しむことはしない。
そもそもお酒は苦手だ。あのきついアルコール臭がどうにも慣れない。
でもそんなお酒が苦手な彼女でも、
ああこんな日なら飲んでもいいかも、と思える程に、穏やかな月夜だった。
シルバーノアは目的地へ向かう為に目下稼働中。
操縦室へと続くドアの小窓を除くと、チョピンが海図とにらめっこしながら佇んでいる。
このシルバーノアの舵を任されている彼が休んでいるところをそういえば見た事がない。
今まで無事目的地へ着いていたのも陰ながらの彼の功績によるものなのだろう。
今度なにか暖かい物でも差し入れにいこうかしら。
ククルはそう思いつつも足早にその場から離れる。
特に用事はないのだけれど、なぜだかなにかに急かされているような気がする。
そうして廊下を歩いていると、じいっと空を見上げている人影がぽつり。
ああそういうことか。
どうやら月と太陽が引力で引かれ合っているのと同じように、
私は彼に引かれていたのかもしれない。
何をする訳でもなく、ぼうっと空を眺めるアークの顔を覗き込みながら、
ククルは声をかける。
「なにか見える?」
「……月が綺麗だなあって」
「そうね、今日はなんだか一段と綺麗みたい」
アークは声をかけられ一瞬驚いたように目を丸めたが、
相手がククルとわかると穏やかな笑顔を浮かべ一歩横へ移動する。
ククルは丁度空いた空間に身を寄せると、彼と同じように月を見上げる。
なんだかこの場所からは月が一段と良く見えるような気がする。
遠くから響くさざ波に耳を澄ませながら、ククルはぽつりと呟いた。
「随分、遠くまできちゃったね」
今どの位置を飛んでいるのか、彼女には正確な場所などわからない。
だがどこであっても、「遠く」には違いないものだとは思っている。
こうして家を飛び出すまでは彼女の世界はスメリア、ひいてはトウヴィルだけであった。
それが今こうして、世界中を飛び回っているなんて、信じられない出来事だ。
こんなにも世界は広かったのか、という驚き。多彩な文化への好奇心。
彼と旅に出てからというものの、ククルはいろいろな事を学んでいった。
しかしこうして、たまに昔との自分を顧みることだってある。
「なんだか夢みたい」
「夢か」
あの頃の自分。そうして今の自分。
時間はそれほど経っていないはずなのに、随分と変わったように思えた。
ククルが微笑むと、アークは困ったように顔を曇らせた。
ぼんやりと月明かりが彼の横顔を照らす。
その横顔がなぜだかとても儚く見えたので、思わずククルはアークの名を呟く。
「ククル、あんまり構えないできいてくれる?」
「なによ改まって」
「俺、ちょっと怖いんだ」
そう呟いた彼の声はいつもの自信に満ちあふれたそれとは似ても似つかないような、
消え入りそうな声。
アークはじいっと月を見上げながら、言葉を続ける。
「今まで俺の周りにも確かに……嫌なやつはいたけど、
ここまで人と人の争いってものを見る事がなかったから」
「アーク……」
「精霊が言っていること、今まで見てきた惨状、
そうして俺がずっと信じてきた世界、それが今」
アークは言葉を切る。何かを飲み込むような間が一拍。
ククルは何を言うでもなく、ただ次の彼の言葉を待った。
「怖いんだ」
そうしてアークが吐き出した一言は、ククルの心にもずどんと音を立てて落ちる。
きっとこの一言は彼が旅に出てきてからずっと考えていたものなのだろう。
ひどく重く響いたその言葉に返す言葉が見つからずにククルは口を閉ざす。
その代わり、隣りに居るアークの手にそっと自分の手を重ねて、
彼の横顔をじいっと見つめた。
ごうごうとエンジン音がやけに響く。
アークは月からククルへと目線を移し、
二人の目があったところでようやく、ククルは口を開いた。
「しんどいね」
それはククルの本心でもあった。
しんどいね、今まで見えなかった汚い物が見えることってこんなにしんどいものなのね。
アークの拳がぎゅっと堅くなる。ククルはそれを包み込むようにそっと握る。
「弱音、吐いてもいいと思うよ」
「皆の前で?」
「ううん、今だけ」
ククルの前で?そう問うアークにククルは穏やかな笑みを浮かべた。
そう、私の前で。しかしアークは首を横に振る。
「だめだよ、今の一回だけで十分」
「でも吐かないと溜まっちゃうじゃない」
「ここで吐いちゃうと、それこそ止まらなくなる、
今日じゃなくても、明日とか、明後日とか、ところかまわず言っちゃいそうだし」
そんな俺見たくないだろ?俺もそうはなりたくない。
アークは笑顔を作るが、その笑顔がとても悲しくってククルはまた言葉を探す。
「――今日みたいな」
「今日?」
「そう、今日みたいな月が綺麗な夜になら、
弱音を吐いてもいいんじゃないかしら、きっと」
「月が綺麗って」
アークは笑って空を見上げる。月は相変わらずぽっかりと夜空に浮かんでいて、
二人を優しい光で照らしていた。
きっとこれだけ優しい月光なら、
ちょっとやそっとの弱音くらいすっぽり包み隠してくれるはず。
どうかな?ククルが首を傾げると、
アークはようやくいつもの……表面上だけではない笑みを浮かべて、
負けたよ、と肩を竦めた。
「誰にも言うなよ」
「言わないわよ」
そうしてかたくなに閉ざされていた口から、ぽろりぽろりと小さな弱音が飛び出す。
飛び出すたびに堅く握られる拳をククルは優しく包んで、彼の話に耳を傾ける。
ひそりひそりとかわされる小さな密談を見守るように、
月は二人を穏やかに照らしていた。
ただ今は普通の少年と、それを見守る少女と。
そして世界を見守るように、淡くでも確かに、月は見守っていた。