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さいごのひ

 その日は普通の人にとって何の変哲もない日で、
リーザにとっては少し特別な日だった。
朝起きて、歯を磨いて、顔を洗って、それでもどうしても気分が落ち着かないのは、
今日が、特別な日だからなのだろう。

 まだ彼女が少女だった頃に出会った少年。
運命に流れるように彼と行動を共にして、幾重に年が過ぎた。
彼女が成人する少し前、彼は言った、俺の彼女になってください。
その日々さえも思い返すと随分遠く感じる。
あの頃の私たちはただ無邪気で、素直で、一途で、随分純粋な生き物だった気がする。

 春の日差しが暖かい、小鳥がさえずっている。
太陽の光にリーザは目を細めた。
これだけ日差しが暖かいのに、風は少し冷たい。
彼女の相棒であるパンディットが心配そうに鼻を鳴らして擦り寄ってくる。
大丈夫よ、私は。
リーザはそっと彼のたてがみを撫でる。

 今日は、「エルクの彼女」として振る舞える、最後の日。



***



 じっとしているといろいろ考えてしまうから今日は忙しなく動こう。
どうにも落ち着かない気持ちを緩和するように、リーザはまず洗濯に取りかかった。
まだ冬の名残で水が凍える程に冷たい。
時々手を休めて温めながら、ひとつひとつ丁寧に衣服を洗っていく。
そういえばエルクの手は温かかったっけな。
火属性だからかな。
彼の体温を思い出して、胸がぎゅっとしまる。
同時にざわりと心の中で大きな風が吹き抜けた。

 こう考えたら距離は離れていても、
心が離れているって感覚は少なかったように感じる。
それは彼が連絡をしてくれてたりだったり、
彼の後輩――アレクたちがよくエルクの話をしてくれたからかもしれない。
そうして皆の細かな気遣いで、リーザはエルクと離れていても繋がってこれたのだ。
だからよく覚えていない。
エルクと長く一緒にいたから、彼がいない頃私は、どう歩いていたんだっけ。

 パンディットがリーザを見守るように目の前で座りこんだ。
そっか、私とパンディット、ふたりぼっちだったんだっけ。


「パンディット、そこにいたら濡れちゃうわよ」


 リーザの忠告にも彼は耳を貸さずに、ただじっと彼女を見つめていた。
わかってる、逃げちゃいけないんだよね。
洗濯桶の中の水は酷く冷たい。
まるで刺すような感覚に、リーザは拳を握りしめる。

 彼女は、変化をあまり好まなかった。
変わるという事、新しい何かをはじめるという事は
既存の物を打ち壊すところから始まる。
あるがままを、今ある物を愛でる彼女は既存の物を打ち壊す事が酷く苦手だった。
だからエルクに惹かれたのかもしれない。
なにもかも打ち壊して「新しい」を生きる彼に、惹かれたのだろう。

 昔から一歩踏み出す事が怖かった。
今だって怖い。
全く成長してないわね。苦笑しながら服を絞る。
だばばばと服から水が滴り落ちる。
跳ねた水がパンディットにかかり、彼は不機嫌そうに鼻を鳴らした。
だから言ったのに、リーザは笑う。


 空は青く高く、まるでパンディットのたてがみみたいだな、と思った。
いつものように洗濯したものをひとつひとつ干していく。
絞りきれなかった水滴がぽたり、ぽたりと地面に染みを作る。
そういえば昔、雨の日にエルクと足止めを食らったことがあったっけ。
どうしても長く一緒に居ると些細な出来事も思い出に直結してしまう。
その度リーザの胸は切なく高鳴って、悩ましげなため息を吐くのだった。



 そうして彼女が洗濯物を干し終わる頃に、エルクは彼女の牧場へやってきた。
彼を見たリーザは、複雑そうに顔を歪めたがすぐ笑顔に戻り来客を出迎えた。
エルクも困惑した笑みを浮かべて、やあ、と挨拶。
どこかぎこちなさが残る挨拶に、リーザの心臓は小さく伸び縮みする。


「リーザ、あのさ」
「うん、わかってるわ」


 あれから、昨日からいろいろ考えたの私。
エルクのマントがぱたぱたと風に煽られる。
彼女のスカートも波のようにはためいた。
パンディットはただ、二人の成り行きを黙って見守っている。


「急に、ごめんな、あんな事言ってでも俺……」
「エルク、私ね、昨日いろいろ思い出してたの」


 俺、の後の言葉を遮るようにリーザは言葉を発する。
エルクは一瞬それでも続けようとしたが、
彼女の真剣なまなざしを見て口をそっと閉じた。
リーザの心の中に、楽しい思い出や優しい思い出、
同時に辛かった事や悲しかった事がまるで映画のワンシーンのように流れる。
そうして流れていくものをぽつりぽつりと言葉にしていく。
あの頃はどうだった、あのときは楽しかった。
そうして最後の、昨日のエルクの言葉が彼女の頭の中に膨らむ。


「貴方の彼女でいれて、本当に幸せだった」
「リーザ……」
「だからね、エルク」


 昨日やけに月が明るかったから、
寝付けない目を無理矢理閉じて夢の中に潜り込むではなく少し外を散歩した。
散歩したときにいろいろ考えた、今までの事そして、これからの事。
リーザは変化が苦手だ。
一歩踏み出すのも得意じゃない、でも、きっと彼となら乗り越えられると思っていたし、
これからもきっとそう思うだろう。

 リーザは一歩踏み出す。
そんな彼女を見て、エルクは背筋をピンと伸ばした。
彼女はそっと彼の手を取る。
そう、この手、この暖かい手で、これからも私を。


「ふつつかものですが、これからもよろしくお願いします」


 どうぞ導いてください、私の愛しい旦那様。


 それは沢山の人にとっては普通の日。
でも私に、いや、私たちにとっては大切な特別な記念日。
「彼女」だった最後の日。そうして、「妻」になったはじまりの日。


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「俺、頑張ってお前を幸せにするから」
「うん」
「だからもう一回言っていい?」
「ふふ、また言うの?」


「リーザ、俺と、結婚してください」