DropFrame

今夜このまま

 深夜。生きるための最低限の広さしかない部屋の片隅に、彫刻のような男が座っていた。春風が差し込む窓。白いカーテンがゆらゆらと揺らめき、風の向くままさざ波のように、形を変えて光を落としている。
 私は畳に布団を敷いて眠っており、なにかの気配にのっそりと起き上がった。男が笑う。起きたか、と記憶の底を揺らがすような声をもって。
 その夜は酷く喉が渇いていて、私は頷くとゆっくりと立ち上がった。冬の冴えた空気とはちがう、春のどこかくすぶるような暖かさ。枕元の薄いカーディガンを羽織りあくびを零せば『それ』は呆れに似た笑みを零す。
 キッチンは寝室の先にある。一Kの部屋は手狭だけど、一人で暮らすにはいい広さだった。
 シンクの横に置いてあったグラスを飲んで水を一口。ようやく潤った喉に、徐々に明瞭になる意識。もう一度グラスに水を注ぐ。七割ほど注いだ水は私が歩くたびゆらりと揺れた。
「……ルシファーも、飲む?」
 暗がりに声をかける。しかしそこにはもう誰も居ない。まるで『それ』が幻だったかのように、暗がりにはなにもない。
 行き場の無くなったグラスを持って、彼が居た場所に座り込んだ。仄かに温かい気がする。水を飲み込めばカルキが滲む味がする。
 ひときわ強い風が吹いた。窓の向こうで、桜がふわりと流れていく。見ていけばいいのにな。呟いた言葉は狭い部屋に響くだけで、きっと彼には届かない。