あんなことがあった、こんなことがあった。お酒を飲み下し記憶の蓋を開けるたびに、蠱惑的な赤い瞳が脳裏に浮かぶ。
あれは悪魔だった。
私がそう言葉を続ければ、人々は笑う。おとぎ話だと、作り話だと、自身が納得できる言い訳を添えて笑う。私も彼ら彼女らを否定せずに、しかし自分の思い出を否定することなく、それでも私は悪魔と会ったの。と続ける。
そうしてそれは今日も、例外ではなかった。
あれは、悪魔だった。
見た目はおそらく――二十をすこし過ぎたくらいの年齢だろうか。濡羽色の髪に、ルビーのような赤い瞳をして。七人兄弟の長兄で、彼らは一つのお屋敷に住んでいて。私もその館でほんの少しだけ過ごしていてね、そう、彼の名前は。
いつもここで言葉に詰まる。覚えているようで覚えていないようで。まるで今朝見た夢のように追いかければ輪郭が消えてしまう『彼の名前』は、私の喉の奥で崩れてしまう。
だけど姿は覚えている。背筋がぴんと張った背中だった。細く長い指だった。いつも弟たちの言動に眉を寄せて、それでもたまに慈しむように笑って。とても美しい悪魔だった。秘密の部屋で、レコードをかけて。紅茶が好きでよく嗜んでいて。
随分と昔のことだから、仔細は覚えていない。だけど夜眠れないときに彼を尋ねれば暖炉の火で身体が温まるまで隣にいてくれたこと。故郷を思い出しては涙する私に紅茶を淹れてくれたこと。レコードの針が不穏な音を立てるたびに嬉しそうに笑っていたこと。
途切れ途切れの思い出が数珠つなぎのように流れていく。懐かしい、そうあの悪魔は。
「……名前だけがね。思い出せないの、どうしても」
「そうですか」
グラスの中で氷が揺れる。琥珀色したブランデーはもうほとんど残っていない。薄明かりだけが頼りのバーカウンター。隣の人の顔さえ朧気だ。
頬が微かに上気している。飲み過ぎたのかもしれない。グラスをそっとマスターへ押しやれば、隣の青年が手を上げた。マスターとなにか二三言葉を交わして「それで」と青年がこちらに言葉を向ける。
「それで?」
「貴女は幸せでしたか?」
「……ええ」
マスターがショットグラスを置く。丸い氷の周りには薄い飴色の液体。青年は黙ってそれを私に差し出して「どうぞ」と一言。グラスに添えられた爪先は、赤く塗られている。記憶の隅で何かが揺れて――消える。
彼の顔は薄暗闇の向こう。目を凝らしても、なぜか闇に溶け込んでいる。酔いすぎたのだろうか。しかし自然と指はグラスに向かい、それを持ち上げる。一口、お酒を流し込めば懐かしい花の香りが広がった。
「……きみが望むのなら」
なぜか、記憶の向こうで悪魔が笑う。
「いつかその名前を、思い出す日がくるだろうな」
顔を上げれば、隣には誰も居なかった。残されたお酒を口に含めば懐かしさだけが、口元に香った。