爆発音の隙間に「……お前は、人間界が恋しかったりするのか?」なんて不安げな声が通り抜けた。
魔界のアクション映画というのは人間界のそれよりも随分と過激でド派手で、先ほどから爆発音が絶えることはない。主人公である悪魔がヒール役である天使を倒す、所謂勧善懲悪ものの話なのだけれど、倫理観がひっくり返っているので、どうにも天使に同情してしまう、そんな映画だった。人間界のそれならVFXとやらでエフェクトやありえない背景を合成したりするのだけれど、魔界産はそんなことはしない。純粋な爆発と、純粋な魔法だけで画面が彩られるからだ。だから、ドンパチが非常に映える。
そんな賑やかな映画を、二人で眺めている最中の出来事だった。
正直に言えば、恋しいなんて思う隙間はなかった。毎日新しい情報を追いかけるのに精いっぱいだし、一人になろうとすればマモンを筆頭に兄弟たちが部屋で騒ぎ始める。部屋が壊れたときだってベールの問題(と、ルークの事件)で頭がいっぱいだったし。部屋が直ってからはいつもの日常でーーだからよく考えると、一人でぼうっとする時間なんて寝る前だけのように思えた。その時間だって人間界のことを思い出すよりも、これからどうしよう、なんて未来に不安を馳せる時間が多くて、見慣れない天井のツタを見上げても、故郷のことなんてこれっぽっちも思い出すことはなかった。
それに、魔界が思いのほか過ごしやすい環境なのも要因としてあるかもしれない。
例えばファンタジーものでよくある腐臭の立ち込める空気だったり、腐食した岩が隆起する道だったり、そういった(人間界では)古典的な風景は、この辺りでは見たことも感じたこともなかった。大体の通りは歩きやすいように整備されているし、夜には星空がちゃんと広がっている。
留学という建前、しっかりと衣食住保障されているしーー問題は食の文化が違うことだけれどーーなによりたまに人間界へと降りる兄弟たちがお土産を買ってきてくれるから、どうにも故郷が『身近』なのだ。
そんなことすら今考えてようやく思い至るほど、私の中で【故郷】というものは小さくなっていたらしい。おはようからおやすみまでいつも騒々しいから忘れてしまっていたのかもしれない。
そんなわけで、マモンの問いから唐突に芽生えた『恋しい』感情が、ぽつり、ぽつりと心の隅に芽吹き始めた。賑やかな音の隙間で、点滅の激しいテレビの光と重なって、まだ人間としてのんびり生きてきた自分の姿が重なる。友達、家族。通学路。教室。リビング。自分の部屋。
「(恋しい)」
芽吹いた感情はツタのように広がり、胸をちりりと締め付け焦がす。帰りたいという感情とともに、ああちゃんと焦がれてくれた、なんて安堵する気持ちも混ざり溶けていく。そうしてどう返せば正解なのだろう、なんて気持ちも浮かぶ。悪魔は豪快だけれど、案外繊細なのだ。めくるめく冒険譚の合間、ちらちらとこちらをうかがうマモンの視線に、私はわざと眉を潜めてやる。
「悪いものでも食べた?」
「なんでそうなんだよ」
すかさず肩に伸びてきた腕を叩き落とせば「可愛げがねえ」とマモンは文句を垂らし、素直に腕を引っ込める。絡んでくる同級生には獰猛な瞳を向けるくせに、二人きりになるといやに素直だ。彼がもし人間ならば情愛の類でも疑うけれど、如何せん彼らは悪魔。こんなもの戯れの一つにしか過ぎない可能性もあるのだから、相手にしないに越したことはない。
ソファはないからベッドの上。ツタの生えた壁に寄りかかりながら、二人で映画の続きを見る。マモンが借りてきた映画とあって、先ほどから随分と画面がド派手で荒々しい。頻繁に起こる爆発音を聞き流しながら――そして興奮して飛び出す彼の言葉を聞きながら――ぼんやりと『恋しい』の続きを考える。
家族がいて、友達がいて。
体育座りの足を抱きながら、視線を落とす。ピンク色のシーツは誰かが頻繁に手入れしてくれているらしく、いつだって一片の汚れもない。つま先は先日アスモにペティキュアを施してもらったおかげで、彩豊かな色が咲いていた。『留学生』にしては、随分と上等な扱いだ。塗斑の欠片もない爪は、ランプの光を緩く均等に受け止めている。ずっと人間界にいたら、こんな足の指を彩ることもなかっただろう。あったとしても均一な色だったり、無難なものを選んでたはずだ。オシャレを知り尽くした、奇抜でありどこか馴染のある色は、きっとアスモでなければ選べない。
人間界での私は、特筆するようなことのない人間だった。家族はいて、友達もいて。毎日学校に通っては勉強の愚痴を吐いたり、ドラマの感想を言い合っては帰り道にたまに買い食いをしたり。宿題に追われる夜もあれば、友達と通話しながら試験勉強をした覚えもある。家族と囲んだ食卓。友達とこっそり食べた購買のアイス。思い出せば随分と遠く、懐かしい。つい先ほどの出来事だったのに、テレビの向こうの出来事のように、なぜだが距離がある。
感傷に浸り始めたらきりがない。おセンチな気持ちに溺れて強く足を抱く私を現実へと戻したのは、マモンの随分と興奮した揺さぶりだった。
次いで耳に届く、つんざくような爆発音。四散に散る骸たち。興奮を顔いっぱいに広げたマモンが目を輝かせながら、私の顔を無理やりテレビへと向ける。
「おい! 今見たか?! 見ろよ!!」
「うるさい。マモンが変なこと聞くから見てないよ」
「あ? 変なこと?」
自分が問いかけたことなのに、どうやら意識は完全に映画へと向いていたらしい。マモンはこちらを一瞥すると記憶を辿るように一瞬、瞳を閉じーーそうして思い出したのか「ああ」とだけ漏らして「でも今は映画だろ?」なんて笑い飛ばして肩を強く叩いた。おそらく手加減してくれているつもりだろうけれど、十分に痛い。「いたい、いたい!」と返せばそれすら笑い飛ばし、マモンはくつろぎながら映画の続きを見る。
「(これだもんなあ)」
彼に植え付けられて膨らんだ不安の種が、彼によって摘まれていく。恋しいなんて考える余裕もないほど賑やかな日常に、慣れもなく、抗いもせず、ただ受け止めて日々を過ごす。
見ていないうちに映画は随分と進んでいて、もう天使本陣まで上り詰めている。あとすこしでラストバトルだろう。見たことのない武器を手にした主人公が、自らの羽で空を飛んでいく。終焉に向けて画面の彩は華やかになり、隣のマモンの鼻息も荒くなる。
ーーけれど留学は一年間。同じ季節は二度と廻らないし、与えられた時間は短い。
おそらくすべてを『恋しい』と思うのはもう少しあとだ。激しい喧噪も、個性豊かな兄弟たちも『思い出』や『記憶』に変わるころ。似ている風景を見ては重ねて、思い出して……そんなことが容易に想像できる自分が恨めしい。
テレビ画面の向こうでは、ありえない映像が当たり前のように過ぎていく。熱が入ったマモンは両手を握りこぶしに「おおお!」「すげえ!」なんて興奮の熱を落としながら画面を食い入るように見つめている。
「(ずるいのは、悪魔だからかもしれない)」
体重を彼に寄せれば「おお?!」なんてようやくこちらに意識が向く。あからさまに動揺してる横顔に「なに?」と視線を向ければ「な、なんでもねえよ」なんて同様の滲む言葉が漏れる。今はこのくらいでいいのかもしれない。ほんの少しだけ彼の緩んだ口角が見えて、胸がすく。遠い郷愁を画面が画面の爆発音でかすんでいく。目まぐるしい時間が、今日もまた過ぎていく。