微かに轟音が鳴り響く扉を、私は恐る恐る引いたのだった。
おかしいとは思っていた。無人である部屋からは扉越しでも分かるほど音が響いていたから。人の気配(この場合悪魔の気配が正しいのだろうか)なのか、それとも小動物の類いなのか。部屋の主である私はRAD帰りで、当然この部屋はもぬけの殻のはずだ。なのに、物音。
泥棒の類いかもしれないし、なにか良からぬことが起きているのかもしれない。頭の中をぐるぐる回る嫌な予感に硬直していたら、帰り道が一緒だったベールが不思議そうに「入らないのか?」と声を掛けてくる。私としてはベールに部屋に戻らないの? なんて聞きたいところだけれど――そんなことは、ともかく。
急かされたこともあり、私はようやく、恐る恐るではあるが自室へと響く扉を引いたのだった。
まず耳に入るのは、轟音。ごうごうと、高らかに響く音は記憶にも覚えのある音で、私は思わず眉を寄せる。泥棒だとか、小動物だとか、突飛な想像よりも『あり得る可能性』。信じたくなくて扉を閉めようとすれば「マモンだな」と無慈悲な声が後ろから飛んでくる。
「やっぱりそう思う?」
「ああ」
なんで、だとか聞いてもきっと意味が無い。彼ら悪魔は『したい』から『する』のだ。
扉の隙間から部屋を覗き込めば、天井に吊されているステンドグラスを模したランプたちからは煌々とした鶸色が灯っていた。部屋の奥。ツタの生い茂った壁に添うように置かれたベッド。その上に『傲慢』にも大の字で寝ている悪魔が、一人。
寄ってしまった眉根に、さらに皺が刻まれる。普通無人の他人の部屋に入ります? という常識的な怒りが喉元まで迫り上がって――唇をきつく締めて押しとどめた。
ここでの私の常識なんて、誰一人とて通じない。言えない文句に苦しんでいたら、当たり前のように部屋へと入り、そして所定位置であるベッドに座るベールが再び首を傾げた。
「どうした?」
「いや……」
窮屈だったのだろう。マモンの伸びる足を置くに押しのけて座り直す姿は、べつにいつもと変わりませんけど、なんてお顔をしている。確かに今のこの瞬間だけ切り取れば、マモンが眠くなって寝ちゃったんだな、という認識もできる。しかし問題なのが、彼が訪問客ではなく、居ぬ間にやってきた侵入者という点だ。
説明すればわかってくれるだろうか。ベールの純朴なアメジストの瞳は時折瞬きながらこちらを見上げるが――その奥に灯るぎらぎらとした悪魔の炎を私は見逃さない。彼らと私ではそもそもの常識が違う。もしかしたら他人の部屋に勝手に入るなんて彼らにとっては非日常な出来事じゃないかもしれないけれど――。
「いや、おかしいとこが、あるじゃない」
「おかしいところ……?」
我慢できずに飛び出したその言葉に、ベールは不思議そうに首を傾げ、辺りを見回す。当然、後ろのマモンは見た後に、だ。あーやっぱわからないか。頭を抱えてうずくまりたくなる衝動を抑えながら、正解を探しているベールを見守る。
そうして暫くしたあと、ベールはテレビの前にある何も置かれていないローテーブルを見つけて、なるほど、なんてしたり顔で頷き
「今日はピザを頼んでないんだな」
「いやそうじゃなくて!」
頼んでいるわけないじゃん。大体ベールも居着くなんて思わなかったんだから!
喉元まで出てくる文句をよそに、食べ物がないと気がついてしまったベールは見るからに眉を下げてDDDの端末をいじくりはじめた。そうしてマモンの高らかないびきをよそに手慣れた様子で電話を掛けると、電話口の向こうの人と二三言葉を交わしたあとに、おどろおどろしい料理名を嬉しそうに並び立てる。
サソリ――二百年熟成された――タランチュラ――イモリの――。
聞いているだけで胸焼けがしてくる商品名を、ベールは呪文のようにすらすらと唱える。人間界に居たときにはファンタジーなんて胸躍った単語立ちも、いざ現実となり目の前に差し出されてしまえば嫌悪感がむき出しになる。幸い臭いやビジュアルには慣れてきたけれど、食べろと言われたら未だに躊躇してしまう。ゲテモノ料理。いや、彼らにすればそれは『普通』の料理で。
「……最後に、そうだな。マルゲリータも。ああ、追加のトッピングはいらない。人間界にあるように頼む」
そうしてDDDを切ったあと、ベールは嬉しそうに「お前も食べるだろう?」と微笑んだ。その嬉しそうな顔に水を差すのも申し訳ないけれど、ここは私の部屋であって、そもそもそんなおどろおどろしいものをここで食べないで欲しいという気持ちもあって……。
配慮が嬉しい気持ちと、配慮が足りない気持ちの狭間に揉まれて、なんとか「ありがとうございます」との言葉を紡ぎ出す。満足そうに微笑んだ彼は、唐突に立ち上がり鞄からお菓子の袋を取り出して無遠慮に食べ始める。
自室のように寛ぐ二人を見て、私も観念してベッドの隙間に座る。相変わらずごうごうと眠りこけるマモン。いびきの隙間にベールがチップスを砕く音が響いて随分と賑やかだ。
「ところでお前は何を気にしてたんだ?」
「いや後ろの――なんでマモンが眠ってるの」
「眠いからだろう」
「いや、寝る場所がおかしいでしょうよ」
「……? ベッドは寝るところだろう?」
「そうじゃなくて!」
そこまで言い切って、勝手に部屋にピザを大量注文するベールも相当おかしいことを思い出す。どこから突っ込んでいいのやら。こんがらがった頭はいつだって正常な判断を下してくれない。ばりばり。ごうごう。各々が好き勝手に奏でる音に絆されて、まあいいかとようやく眉間の皺も緩んでいく。
「腹が減って気が立ってるんだろう。もう少し待て。ピザが届く」
「……わー、うれしいなあ」
そう空返事をした私の背中を、豪快な寝返りを打ったマモンの腕が、私の背中に容赦なくぶつかってくる。
「いった!」
顔を顰めて振り返れば、そこには随分と間の抜けた、安らかな寝顔。たたき起こせるほど悪魔に染まっていない私は、観念のため息を吐いて、横に押し出されていた掛け布団をその身体に掛けてやった。